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従業員たちのストーリー:難民インターンシップ

最終更新日: 2017.03.31
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10年後には、ユニクロの一員としてバングラデシュに逃れた難民を助けたい

私は10人兄弟の6番目です。上の3人は両親と同じミャンマーの生まれ。4人目からは逃れた先の隣国、バングラデシュで生まれました。父も母もロヒンギャというイスラム教徒の少数民族です。父はミャンマーの首都にあるヤンゴン大学で学んだ医師でしたが、ロヒンギャで医師になる人はめったにいません。大学を出ても就職できなかったり、そもそも教育を受けること自体、難しかった。父はそういう状況に抗議し、初めてのデモを仲間と行ったんです。そのためにミャンマーにいられなくなり、まず一人でバングラデシュに逃げました。

そのとき母のお腹には4番目の子どもがいました。母はモンドウという村の大地主の娘で、その地区ではロヒンギャが平和に暮らしていました。ところが、軍事政権が樹立されると、移動や教育、仕事など、厳しい制限を受けるようになりました。母は、父から届いた手紙だけを頼りに、止めようとする祖父を振り切って、着の身着のままでバングラデシュにわたりました。豊かな生活を捨てて、やっとの思いで再会できたものの、枕すらない貧しい暮らしだったそうです。

子どもたちの将来を心配した父は、ロヒンギャであることを隠し、バングラデシュ人のように振る舞って暮らすしかありませんでした。クリニックの医師として雇われると、腕が認められ、5年後には大きな病院に転職しました。

やがて父は後から逃げてきた人びとを支援したり、難民キャンプに暮らす人びとの状況を改善するため、政府と交渉したりする活動を始めました。医師という社会的地位があったから、発言できるようになったんです。ところが政権が変わり、医師の仕事は奪われてしまいました。父は家族を支えるためにあらゆる仕事をしなくてはならず、家にいたことはほとんどありません。

父は、いつかミャンマーに戻る夢をもっていたので、娘たちを同じロヒンギャの人と結婚させようと、いろいろな国に逃げていった同胞のなかから相手を探してきました。上の姉2人はアメリカで難民認定されてアメリカ国籍をもち、3番目の姉はサウジアラビアに住む人と結婚しています。

医師を諦めて結婚

私の夫はミャンマー生まれ、母方の親戚です。夫の父は歴史家で、作家でもあるのですが、軍事政権の意向に反する本を書き、目をつけられていました。ある夜、身を隠していた父の身代わりとなって、まだ18歳だった夫が連行され、拷問を受けました。釈放後は危険な地元を離れ、ヤンゴン大学で学んでいたのですが、卒業式の直前に身辺が危なくなり、話せばそれで映画や本になるような逃避行を経て、命からがら日本にたどり着きました。その後、難民申請をし、2年半後にようやく難民と認められました。

私たちが初めて会ったのは、彼が日本で難民認定された後、一時的にバングラデシュを訪れていたときでした。私は18歳、彼は28歳。当時、私は医師を目指して必死で勉強していたのですが、受験の申請でロヒンギャとわかってしまったら、家族にまで迷惑がかかるということになり、泣く泣く受験を諦めました。

そのタイミングで彼と引き合わされたのです。私の結婚の条件は、日本で必ず勉強させてくれること(笑)。

2006年12月31日、初めてやってきた日本は冷蔵庫のなかみたいに寒かった。4月にRHQ(難民事業本部)が用意してくれたマンションに引っ越して、日本語の勉強をゼロから始めました。ひたすら勉強して、6カ月のプログラムを2カ月で終わらせました。修了後に受ける日本語能力検定は3級から2級に繰り上げて挑戦。合格したときは、本当にうれしかった。

日本で学校に行かせてもらう約束ではあったけれど、夫の収入ではとても無理だろうと諦めていました。でも彼は、どうしても私に勉強をさせてやりたい、奨学金をもらえるかもしれないし、何とかしようと。

相談にのってくれたRHQの先生が、1級を取れるくらい勉強すれば大学にも受かるといって、新宿の日本語学校を紹介されました。試験を受けて、学費は70%免除されることになり、それから2年間猛勉強です。卒業のとき、青山学院大学がUNHCRの難民高等教育事業と提携して、毎年1人、学費免除の奨学生を募集していることを知りました。宝くじを買うつもりで受けたら、奇跡的に合格したんです。

大学でユニクロの難民支援を知る

大学では難民について学ぼうと総合文化政策学部に入りました。2年生のとき、ユニクロの難民支援について、授業で知りました。もともとユニクロのファンだったんです。手軽な値段でどこででも買えるというのが主婦としてありがたく、気に入っていました。

1年生の学年末試験のとき、妊娠がわかりました。夫はそのとき、「お腹のなかにいる間は、あなたががんばって。生まれてきたら、私ががんばるから」と。2年生の夏、息子が生まれました。夫はそれまでの仕事を辞め、自動車の中古販売をしながら子どもの世話をして、私は一所懸命大学に通ったんです。3年生の期末試験の頃、2人目を授かりました。2人の子育てをしながら先生や友だちに助けてもらい、何とか卒業できました。卒業論文は日本の難民問題についてでした。

学生時代、ユニクロ池袋東口店で10日間の大学生対象のインターンシップに参加しました。私、声がすごく大きいんです。「いらっしゃいませー、いらっしゃいませー」と声を出すことを「活気出し」というのですが、「あのインターンの子、活気出しがすばらしい。1階から3階まで聞こえるよ」とスタッフ仲間にいわれるほどでした(笑)。

店長もスタッフも、みんな仲のいいお店でした。インターンの後、正式にアルバイトをしてみたいと店長にいってみたら、ぜひ、といってくれたんです。「私は外国人だし、イスラム教徒だからベールをつけているけれど、このままでいいんでしょうか」と聞いたら、「ぜんぜん大丈夫」と。もう、感激でした。そのとき、将来ユニクロの一員になれたら、難民のために働くことができるかもしれないと思ったんです。

まず一人の自立を助けたい

池袋東口店でのアルバイトは、出産を機に辞めたのですが、子どもが大きくなったらいつでもおいでと店長がいってくれました。その後、東日本大震災で夫の経するハラルフード(イスラム教徒の人びとが食べられる食品のこと)の店が経営不振になって、一家で群馬県の館林に引っ越すことになりました。私も大学を卒業したところで、群馬にはロヒンギャの仲間もいたんです。そのことを当時の店長に伝えると、館林店で働いたらどう?といってくれました。去年の4月から、子どもたちを保育園に預けて、館林店で働いています。

皆さん、難民というと、身なりの汚い貧しい人たちと思うかもしれないけれど、自分の国では、豊かないい人生を送っていた人たちかもしれないんです。生きるためにすべてを捨てて、何もない状態でほかの国に逃げなければならない。この気持ちをどう説明すればいいでしょう。

難民を受け入れる国には、数だけを増やすのではなく、彼らが夢を失わないように、自立できるまで支えてほしい。教育や仕事の機会があれば、人間は可能性に向かって前を向けるはず。結果的には、難民を受け入れた国のプラスにもなると信じています。

私の夢は、今から10年以内、いえ、できれば5年以内に、バングラデシュの難民キャンプにいるロヒンギャ難民のために、ユニクロの一員として支援できるよう、力をつけることです。今、5歳と3歳の子どもがもう少し大きくなったら、フルタイムの正社員になって、いずれはそういう仕事をしたい。それが難しければ、個人としてでも、何か難民のための仕事をしたい。

一人が支援を受けて自立できれば、その人の後ろにまた誰かがつながっていく。自分たちの小さい力でも、何かできるはず。私も夫も、そう考えています。

カディザ ベゴム氏

ユニクロ
館林店
カディザ ベゴム
(バングラデシュ人民共和国生まれ)

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